『ほほえみ』
第一章

〜乙女の恋心















ファミリーレストランのSに居る時の自分がとても好きだった。
詩織は、客に出る自然の笑顔が誇らしかった。
家にいる時の自分と違う…明らかに、自分らしく自然に振舞える。
はつらつとした自分の姿は、以前では想像出来ない程、詩織はそのSに染まっていた。

それは、あの忘年会から数日が過ぎた日の事である。
詩織は夜、夫の紀行が帰ってから、Sに行った。
お気に入りのアーティストのCDのダビングを社員の田中にお願いをする為である。
紀行はこの頃から帰りは遅かった為、子供達を寝かせ、出かけた時間は既に午前0時を回っていた。
昼間のSとは全く違う雰囲気、若いアルバイトの学生が働いていて、どことなく、新鮮なムードが漂っている。
「閉店したら、皆でコーヒーを飲みながら、いつも話すんですよ。それが、結構楽しいから、よければ、閉店までいたら?」
田中は詩織が主婦である事を忘れているのか?時間の感覚も無い言い方であった。
しかし、詩織は結局そのまま、Sの閉店時間まで居てしまう事となる。
主婦がこんなに遅い時間まで、出歩く事に詩織は抵抗も感じていないどころか、その若い店の雰囲気に興味と新鮮、そして魅惑の世界…そんな感じであった。

閉店した後、店のフロアの客席で、最後まで働いていた人間が残ったコーヒーを飲み出す。
昼間のランチタイムでは、ウエイティングが掛かるほど、にぎ合う店で働いている自分なのに、このSの夜中、しかも閉店後という事だけで、不思議と興味を増大させるものがあった。
イスにゾロゾロと腰を掛けた面々は、皆見た事がない。
そして、皆仕事が終り、やれやれ…と、若干疲れている顔。
「お疲れ様です」
少しばかり緊張していた詩織は、何となく馴染みにくい中で、それなりの愛想笑顔をしていた。
始めに田中が自分を紹介した他意外、自分の事を聞いてくる人間も特別いない。
今夜の仕事内容の事や、世間話など、皆が話してる内容に相槌を打ちながら、聞いていた。
何分か過ぎた時、
「それじゃ、そろそろ、お先に!」
一人の男の子が言い出し、立ち上がった。
「あっ!待って!」
詩織が慌てて立ちがる。
「はい?」
男の子は振り向いた。
「御免、私も帰るから、方向が同じなら、途中まで一緒に…」
詩織がそう言ったのは、咄嗟では無かった。
こんな時間に一人で自転車を漕いで帰るのがとても怖かった、幾ら近いといっても、自分は女である、しかも、深夜2時過ぎなのである。
「あ…はい…」
その子は無愛想に返事をすると、スタスタと歩き出す。
知らない男の子だが、それでも、幾らか心強いのは確かである、詩織は追いかけていった。
と、その時である
「おい!気をつけろよ、熊谷さんは、いきなりデュエットしよう!とか、言い出すから!」
背後から、大きな声が聞こえてきた。
「なんっ??!!!」
振り向くと、イスに座ってる皆が笑ってる。
「えっ…え"====っ!!」
今の言葉は?
しかも、デュエットとかって?
「もう、熊谷さんはデュエットが好きだから、その辺で、お兄さん、デュエットしよう!って言い出し兼ねないからな〜〜」
そう言って、目を細くして、ニコニコしている人物を詩織は見た。
「えっ!も…もしかしてっ!!??あの時のォ〜〜?」
口に手を当て、指を指す。
詩織は酔っていた…忘年会の時の2次会、あの荻島と歌ったのは覚えているが、荻島の顔はすっかり忘れてしまってたのである。
「えっ?気が付いていなかった?」
田中が言う。
「あの時の?…って、僕、荻島ですけど、熊谷さん!」
荻島は笑っている。
「えっ…」
思い出せない…
荻島がどんな顔をしていたのかさえ、忘れている。
笑うと、なくなる目だけは印象に残っていた筈なのだが…
やはり、あの時はかなり酔っていたという事になる。
詩織は今まで、一緒に話していたこのメンバーの中に荻島がいる事に、気が付きもしなかった。
ポッカーンとした口のまま、暫く荻島見ていた。
「覚えてないんですか?ひどいなぁ…一緒に歌ったじゃないですか?」
「いやだあ〜〜!」
荻島の言葉に顔面を手で覆うと、皆の笑い声が聞こえる。
「ほらほら、そんな事をしていると、置いていかれるよ、早く行かなきゃ!」
荻島はあの時の荻島と違っていた。
気心知れたバイト仲間同志のように、あっけらかんとした話っぷり、そんな感じであった。
恥ずかしさと、動揺が残るまま、詩織は店を出て、自宅に向った。
『まさか、あの時の…あいつがそうだったんだ…』


ファミリーレストランSには、約一週間分の店長が書いたワークスケジュール表という物がある。
毎日、何時から何時まで、誰が仕事に入るか、棒グラフ状に書かれている一日の勤務予定表。
従業員はそのスケジュール表を確認して毎日、また次の勤務に備えるのである。
詩織はその後、仕事に入る度にワークスケージュールの夜のラインを気にするようになってた。
いつの間にか、そこで探してる "荻島" という二文字。
『あいつ、今日は夜8時からなんだ……明日は……、えっ!!!昼12時入り??』
あの夜から数日経ったある日、何気にいつものように、スケジュールを見ていた時、荻島の名前の横のラインが、昼の12時からになっているのに、驚いた。
詩織がこのSに努め出してから、約9ヶ月目にして、始めて一緒に仕事をする事になるのである。
『いやだなぁ…』
またおかしな冗談を言われ、皆の前でからかわれるのか?
詩織はあれ以来、気になっている荻島にどこかで、会いたいという思いとともに、恥ずかしいという気持ちも重なり、複雑な心境であった。

案の定、荻島は飲み会での事、デュエットに誘って、歌っておきながら、自分の事をすっかり覚えていない詩織を、休憩時間に皆の前でバラす。
荻島の言い口調は皆を笑わせるに値い、その場にいた面子は面白おかしく、詩織を笑い者にした。
穴があったら入りたい…
詩織は、悔しさでを荻島を睨むが、荻島は
「いいじゃないですか?面白い人ですよね!熊谷さんって!はは…」
そう言って、肩をポンポンと軽く叩くのである。
『ぅ…』
反撃しなければ、どうしても許せない…
「なにさ!きつね目野郎!」
詩織がとっさに出た言葉に、荻島は動ずる事無く笑いながら言う。
「もう、おばさんはすぐ怒るんだから、でも本当の事ですよねぇ〜」

小馬鹿にされてる!と知りつつも
年下のくせに、生意気!と思いつつも
そんな荻島の態度がどこかで、嬉しい自分もいた。

その後、荻島という存在が、詩織の仕事への意欲を増大していったのは言うまでもない。
そして、冬季の休みのせいか、荻島は昼のランチタイムにも、バイトに入る事が多くなっていた。
休憩時間や、仕事が終り休憩室でコ−ヒーを飲んでいる時など、荻島を含めた、仲間達とたわいない世間話をするのが、とても楽しくなっていた。
荻島はあれ以来、詩織のする事、言う事に何かと揚げ足を取り、それを笑いのネタにしている。
きっと、夜のバイトの若い子達にも、笑いのネタとして、詩織の事を提供しているに違いない。
そんな、荻島に詩織は負けじと、言い返すのだが、口が達者なのか、詩織は逆に荻島にまた、いじめられてしまう事となるのである。
回りからすると、その光景は漫才コンビそのものであった。

「熊谷さん、その髪型、変だよ!おばさんの髪型じゃない?!」
「ほら、コーヒー溢してるよ、もう…おばさんは口元に締りが無いんだから!」
「やめてよ、此処では歌わないでヨ!!熊谷さん!」

尽く、馬鹿にされてるのが分っているのだが…
自分を意識している荻島の言葉が心地良く感じる



毎日、帰りが遅い夫。
この頃の夫紀行は、中間管理職になったばかりで、仕事が山ほどあった。
家に帰ってきても、遅くまで、書類の整理をする始末。
いつの間にか、そのせいなのか、夫婦生活もなくなり出している。
子供達とお風呂に入る事も無くなっている。
詩織が子供の事を話しても、仕事の事を話しても、上の空。
紀行は果たして家族の為に仕事をしているのか、それとも、会社の為にしているのか、一体なにがやり甲斐なのか…
紀行は詩織や子供に関しては全くと言っていいほど、無関心になっていた。
美容室で髪を切っても、無反応の夫に若干の寂しさもある。
夫婦でいながら、何処と無く距離を感じるのでる。
しかし、詩織はそんな虚無感をSに染まっていく事で、補っていたのかも知れない。
家では、女ではなく子供の面倒を見る、家事をするだけの存在が、Sに行くと、客からはウエイトレスさんと呼ばれ、仕事仲間からは、明るいはつらつとした女性に見られる。
そして、日を追う事に意識をしていく荻島からは、"おばさん"という代名詞がありながらも、"女"として見てもらっているという、満足感.。
夫が見てくれない自分が他の皆に見られてる事…
詩織は快感になっていた。



毎日ワークスケジュールを確認する
"荻島"
今日もその名前を探してる詩織がそこにいた












2004・6・9






haori







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