『ほほえみ』
第一章

〜今という時間〜








夕焼けが奇麗だ。
いつものように、熊谷詩織は見上げる。
その彼方に広がる空は、毎日違う表情を見せてくれる。
一日たりとも同じ顔はない。
いつの間にか、買い物帰りに同じ場所で、空を見上げるのが日課になってしまった。
『あの人、今日はこの空を見上げる事があったのだろうか…』
心の中に思い浮かぶ人物…

ーー荻島 彰

もう久しく会っていない、その人物は営業の仕事で今日も車で走り回っている筈。
時折、携帯で会社や得意先と打ち合わせ、そして苦情が来たと言っては、その指示を部下に出す。
2年前に会った時もそうだった。
詩織の前で、あちこちに電話をして、その時も1年振りに会ったというのに、彼はカラオケを唄わず、殆ど廊下で話していた。
もう、空気みたいな存在…詩織の事などどこ吹く風…そんな彼の態度に寂しさを募らせ、詩織は帰りの電車で泣いた事を思い出す。
今まで、何度涙を流した事だろう…その度に別れようと思う。
しかし、そう思いながらも、自ら別れを切り出す勇気さえない自分が情けなかった。
知り合って、既に15年は経つ。
これまで、二人で作り上げた記憶、二人のみしか知らない二人だけの歴史。
その事総てを過去形にしてしまう事の寂しさを考えると、どうしても、別れは言い出せない。
ただ単純に未練と言われれば、それまでなのだが、詩織自身は未練たらしい女と、これっぽっちも思っていなかった。
何故なら、自分は彰と知り合って、たくさんの自分を知り、女であるとう事を認識出来た。
流した事のない、いろんな味の涙、自分でも知らなかった自分、忘れていた淡い桜色の恋心。
それは、15年という年月の間に確実に詩織の身体に断層の様に幾重にも、重なっていた。

家に帰ると、母になる。
先ほど夕焼けを見ていた自分をいつの間にか忘れている。
買い物袋から、夕飯の材料を取り出し、冷蔵庫に仕舞っていると、5年生になる娘の結花が袋をガサゴソと物色し、中から、スナック菓子を取り出した。
「半分で止めとくのよ、御飯が食べられなくなるから!」
いつものお決まりの台詞。
「うん」
殆ど、耳には入っていないだろう…生半可な返事が戻ってきた。
これからの時間は主婦の詩織にとっては忙しくなる時間。
まず、米を研ぐ、ジャーのタイマーをセットして、お風呂を洗い、湯を沸かし、次に洗濯物を取り込み、乾いた洗濯物をたたむ。
手際よく、方付けると、冷蔵庫をまた確認して、夕飯のおかずを作りだすのは6時頃。
そして、約1時間で支度を終え、だいたい7時にはテーブルに夕飯が並ぶのである。
並ぶといっても、二人分…。
結花と二人で、食べるのにも、最近は慣れてきた。
長女の麻菜はOL、長男の翔平は大学の2年、二人共、帰りはいつもまちまちなのだ。
待っていては、腹が持つ筈もない、まして、夫の紀行など帰りはいつも夜中に近い時間。
日曜日や、夫の休み以外は、だいたい、いつもこのパタ―ンである。
夫の紀行が帰る時間までの間に上の子供達が時間差で帰り、その度にお味噌汁を温め、おかずを用意する。
片付けや風呂などで、ゆっくりテレビも見れない。
やれやれ…とやっと座って一服してると、最後に紀行が帰ってくる。
結局はまた立ち上がり、動くこととなるのだ。
夫の夕飯の後片付けをする頃には、日付が変わってる事が多い、今夜もやっぱり同じであった。

夫、紀行が帰ると、詩織は女になる。
仕事一筋に生きてきた、夫紀行が歳のせいなのか、最近では、飲み会などのも殆ど顔を出さず、真っ直ぐ帰るようになった。
詩織にとって、嬉しい事…なのだが、若干苦痛でもある。
それは、自分が一息入れる時間がないのと、夜の性生活であった。
夫が自分を見るようになって、以前にも増して、求めてくる事が多いのである。
夫に愛されてるという実感は確かにあるのだが、更年期近い詩織にはほどほどがいい。
身体を壊し、疲れやすくなり、以前仕事をしていた頃の詩織は夫とのセックスは、どこか遠いものであった。
お互いに忙しく、子育てに負われ、毎日心身ともに疲れれいた頃は、俗に言うセックスレス夫婦期間もあった。
それが、詩織が仕事を辞め、専業主婦になった事により変化したのである。
夫の休日に二人で出かたり、行動を供にするようになってからは、週1回は身体を重ねる。
夫の連休の時は、一週間の間に3回ということもあった。
平日、子供達がいない時、夜中に声を潜めて、そして、出先でホテルに行く事もある。
しかし、熟した女の身体になっているのか、どこかで、抵抗はしつつも、詩織の身体は夫に抱かれると、それはそれなりに、感度良く反応する。
夫はその事が嬉しいのか、自分が果てなくても、詩織を絶頂に導いてくれる。
そのテクニックはどこで覚えたのか、若い頃には無かったものだ。
年の功とでもいうのだろうか…結局、全身が痺れて、硬直してしまう程の快感に酔わされるのだから、実際のところ、苦痛ではないのかもしれない。
詩織にとっては、一番幸せなひと時なのであるに違いないのだ。

しかし、そんな毎日でも、詩織は一日たりとも、彰の事は忘れた事はなかった。
夫に抱かれながらも、時々、彰の事を思い出す事がある。
夫の穏やかにソフトな愛撫ではなく、思考が錯乱するほどの若い彰の激しいい愛撫を…

今夜も夫の胸の中で、『あの人…』と、心の中で呟やく詩織がいた。








2004・5





haori






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